こんな事って信じられますか。
すさまじい歴史がここにありました
メンデルスゾーンとヤコービとの往復書簡
スピノザの項でも触れているとおり、スピノザの神即自然(deus sive natura)という思想は、当時のキリスト教から無神論のレッテルを貼られ、主著『エチカ』(Ethica)は、長い間人々の目に触れることはなかった。そして、長らく「スピノザ的」という表現をした場合、それは無神論であり、一種のタブーとされてきた。これらにより、長らくスピノザの哲学は忘れられていた。従って、当時のドイツにおいてのスピノザ研究の水準はかなり低く、ほとんど知られていない。また、研究するにしても無神論と危険視されていたため、「果敢」に取り組む必要があった。(なかでも、ゲーテやカントは「果敢」に挑もうとした人物である)
そのような中で、ドイツの劇作家レッシングが、彼の作品である『賢者ナータン』や著『人類の教育』において、個々の宗教の教義を超越し、普遍の地平に到達すべきである、というこの論争の火種になるような考えを示し、また晩年には「自分はスピノザ主義者かもしれない」と述べたことに、この論争は端を発する。(厳密に言えば、ゲーテの「プロメテウス」の詩をヤコービとの対談の中で、「これは私の立場と同じです」と述べたことである。)
レッシングは1781年に死去したが、2年後の1783年に、ヤコービは、レッシングの親友であり哲学者のメンデルスゾーンがレッシングについての著述をする事を知る。そしてメンデルスゾーンに、「レッシングが晩年スピノザ主義であったことを知っているか」という質問を、知人であるエリーゼ・ライマールスを介して書簡において質問する。メンデルスゾーンは、レッシングとはしばらく音信不通であったので、この事は知らなかった。逆に、メンデルスゾーンがヤコービに、なぜレッシングはこのような見解に至ったのかと問い合わせをして来たのである。
メンデルスゾーンは、当時の一般のスピノザの哲学に対する考え方とは異なり、スピノザの『エチカ』に対し、さほど非合理なものでもなく、優れている部分もあると考えていた。また、レッシングだけひとりスピノザ主義者と呼ぶことにも疑問を持っていた。これらに答えるべく、ヤコービはメンデルスゾーンに対して書簡を送り、スピノザ主義に対する見解やレッシングとの対話の内容を明らかにした。これを明らかにしたことにより、ヤコービとメンデルスゾーンとの間でスピノザ哲学のあり方について論争(主に書簡でのやり取り。このころの書簡は、現在のようなメディアが発達していない情勢の中のものなので、その内容は公開されることも多かったし、著作や大学での講義と同等の影響力を持っていた)となるのであった。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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